「シャーロック・ホームズ」シリーズの邦訳比較

先日、あるイベントにて熱弁してきた内容のブログ化です。実はこのブログ、シャーロック・ホームズのファンサイトなのでした!(すっかりプログラミングやら忍者ネタに埋まり、もうタイトルにしかその名残はないのですが…

さてさて、ホームズは邦訳めちゃくちゃあります

今回は 「ホームズはもちろん知っているけど実は原作読んだことないから読んでみたい」 という現代の読者向けにどの版をオススメするか、という観点で比較をしていきたいと思います。

条件をこう整理すると

  • 大人向け翻訳、全訳されている
  • 現在入手しやすい(絶版になっていない)
  • 電子でも入手可能

以下のように絞られます。

  レーベル 翻訳者 年代 補足
シャーロック・ホームズの冒険 (新潮文庫) 新潮文庫 延原謙 1950年代 2010年代に改版
シャーロックホームズの冒険 ハヤカワ・ミステリ文庫 大久保康雄 1950-80年代 1980-90年代に文庫化。2015年冒険だけ新版
シャーロック・ホームズの冒険 (河出文庫―シャーロック・ホームズ全集) 河出文庫 小林司, 東山あかね 1990-2000年代 2010年代に文庫化
シャーロック・ホームズの冒険―新訳シャーロック・ホームズ全集 (光文社文庫) 光文社文庫 日暮雅通 2000年代  
シャーロック・ホームズの冒険 (創元推理文庫) 創元推理文庫 深町眞理子 2010年代 1960年代の阿部知二訳を改めた新版
シャーロック・ホームズの冒険 (角川文庫) 角川文庫 駒月雅子, 石田文子 2010年〜 2021年完成。できたて!

こう振り返ってみると10年ごとに新訳ができていてすごい。

それぞれの紹介

まず新潮文庫版これが偉大な元祖であり、ぼくもこれに馴染みあります。ただ改版されたとはいえ古風な訳であり(例えば「赤ン坊」のようなカタカナの使い方)ただ、そもそも19世紀の話なんで古めかしくていいじゃないか説も。

なお新潮では短編集が一部カットされ別途それを集めた「シャーロック・ホームズの叡智というオリジナルの10冊目がある問題」があります。でも「全訳が入手容易」ではあり、同じ理由で他の版もマニアックですが「ボール箱の収録どれ問題」「短編集の収録順問題」を今回不問とします。

つぎにハヤカワ・ミステリ文庫版ですが、まずポケミスで1950-80年代に出版、そのあと文庫化されました。しかし両方絶版で、2015年に「冒険」のみ文庫が上下巻の新装版で復活し今に至ります。新しいデザインはオシャレなのですが、その後が出ないしもう「冒険」以外は復活しないのじゃないかなーと思っています。電子書籍では全訳が入手可能です。

さて基本的に、この後に出た訳は何らかの《アップグレード》となっています。

河出文庫版はそれまでの訳に対しシャーロキアンならこう訳す!という視点の、直訳寄り。そしてむしろ本編かw というオックスフォード大学出版からの莫大な注釈がついています。分厚く値段も高いですし、興味を持った人の「研究用」と言えます。光文社文庫版はホームズ関連ベテラン翻訳家による上記をふまえバランスをとった訳。創元推理文庫版はクリスティの翻訳なども手がける深町眞理子さんによる、阿部知二訳を上書きする形で作られた比較的最近の訳で、“海外ミステリぽい” 言い回しがあります。角川文庫版は去年完成した一番新しい訳で、これまで邦訳比較では「全訳じゃないから…」と言われ続けてきたのですがついに参戦!となりました。現代向けの平易なわかりやすさを重視されたようです。

個人的には電書でよければハヤカワ(大久保康雄訳)、文庫で揃えたい場合は光文社文庫(日暮雅通訳)を推します。両者とも総じて安定感ある格調高さで「往年のファンの思う世界観に近い」という言い方もできるかもしれません。創元や角川はもう少しフラットな(もしくは訳者の個性がある)訳になっていると感じます。あくまでいちファンによる読み比べた感想です。くわしくは下記の細かい翻訳の違いで確認・好みを見つけてみてください。

装丁・印刷

翻訳の詳細の前に、文庫版について物理的な話を少々。まずこの中で光文社文庫だけ、カバーが通常の光文社文庫仕様ではなく、箔押しタイトルに背表紙まで一体になった豪華特別製です。

フォントは、新潮がやや大きめ(あとふりがなが多いです)。創元がやや小さめ。

厚みについて、「冒険」で新潮・創元が同じくらい。驚くのは角川で、創元より薄いです。紙の薄さの技術か? 光文・河出は補足資料のぶん厚め。ハヤカワの新装版文庫「冒険」は上下分冊で、両方合わせると光文よりも少し厚いです。

原作の連載されたストランドマガジンは挿絵がたくさんある雑誌でした。新潮と角川は原作挿絵が未収録、ハヤカワと光文と創元は少々、河出はもりもり収録となっています。

名シーンで見る翻訳の違い

すべて電子版で冒頭試し読みができますので簡単に比較ができます。例えば人気作である「冒険」第1話『ボヘミアの醜聞』なんかはストーリーほぼほぼ全部読めます(Kindle: 新潮文庫ハヤカワ河出文庫光文社文庫創元推理文庫角川文庫

なのでここではそれ以外の話から、ここぞというシーンをピックアップして翻訳のされかたの比較を並べますので参考にしてください。(引用の範囲内である認識ですが問題あれば指摘ください)

  1. いちばん有名な名言
  2. まだらの紐の訳し方
  3. ワトスンとの会話
  4. モリアーティとの会話
  5. 躍動感のあるシーン

1. いちばん有名な名言

「ありえないことを消去していけば残ったものが真実」この名言は若干言い回し変えて原作に4回登場しますが、『緑柱石の宝冠』から見てみましょう。

原文 “The Adventure of the Beryl Coronet” (The Adventures of Sherlock Holmes)

So far I was clear. The question now was, who was the man and who was it brought him the coronet?
“It is an old maxim of mine that when you have excluded the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth. Now,

  • 終盤、ホームズが関係者全員に推理を披露するシーンです。ズバリ答えを言わずもったいぶって推理の過程を説明する、読点の打ち方など「探偵あるある感」の出方が見どころ。

新潮文庫 『緑柱石の宝冠』(―の叡智)訳:延原謙

そこまではわかりましたが、それではその相手の男というのは何者か? 宝冠を持ち出してその男に渡したのは何者でしょうか? 残る問題はそこです。
あり得べからざることを除去してゆけば、あとに残ったのがいかに信じ難いものであっても、それが事実に相違そういないというのを、むかしから私は公理としております。さて、

  • 1冊おすすめするとしたら第一短編集「冒険」となりますが、新潮ではこの名言がでてくる話が「叡智」収録なのが惜しい。
  • the truth は同じ名言の他の箇所では「真実」に訳されています。
  • 普段は「僕」なのですが、ここは推理披露シーンなので「私」となっている。

ハヤカワ・ミステリ文庫 『緑柱石の宝冠』(「―の冒険」 もしくは新装版文庫「―の冒険 新版 下」)訳:大久保康雄

ここまでは、はっきりとわかりました。残る問題は、その相手の男というのは何者か、その男に宝冠を渡したのは何者か、ということになります。
かねてから私は一つの信条をもっています。ありえないことを消去していけば、あとに残るのは、いかにそれが信じがたいものであっても、真実にちがいない、ということです。ところで、

  • 普段は「ぼく」で外向けの会話では「私」になります

河出文庫 『緑柱石の宝冠』(―の冒険)訳:小林司, 東山あかね

ここまではわかりました。わからないのは、その男は何者か、彼に宝冠を渡したのは誰かということでした。
ありえないことを取り除くと、残ったものがどんなにありそうもないことでも、それが真実であるというのが、わたしの昔からの信条です。そこで、

  • The question now was… が「…でした。」と過去形になっているのが他の訳と違うところですね。翻訳専門でないのですが、読者として(推理自体は過去の行為とはいえ)現在進行形での口述のほうが推理のスピード感ある気が
  • 普段は「ぼく」ですが外向けには「わたし」

光文社文庫 『緑柱石の宝冠』(―の冒険)訳:日暮雅通

まあ、ここまでははっきりしました。そこで問題は、その男というのは誰なのか、男に宝冠を渡したのはいったい誰なのか、という点です。
ぼくは以前から、ひとつの信条をもっていましてね。まったくありえないことをすべて取り除いてしまえば、残ったものがいかにありそうにないことでも、真実に違いないということです。ところで、

  • A:私にこういう信条がある B:具体的な名言 の順について、新潮・河出は B→A 、原文・ハヤカワ・光文・創元・角川は A→B となっている違いがあります。
  • 一人称は外向けでもいつも通りの「ぼく」ですが変ではないかと

創元推理文庫 『緑柱石の宝冠』(―の冒険)訳:深町眞理子

ここまでがはっきり見えてきたわけです。残る問題は、その男がだれで、男に宝冠を渡してやったのはだれか、これだけです。
かねてからのぼくの信条のひとつに、〝ありうべからざることをすべて除去してしまえば、あとに残ったものが、いかにありそうもないと思えても、すなわち真実である〟、というのがあります。さて、

  • 名言がもはや〝 〟でくくられていて笑いました。他の箇所もそうです。しかも「これはホームズの名言である」みたいな注釈まで入っていますw

角川文庫 『エメラルドの宝冠』(―の冒険)訳:石田文子

残る問題はその泥棒の男がだれかということと、その男に宝冠を持っていったのはだれかということです。
わたしは昔からある定理を利用してきました。それは、不可能なことを除去していけば、残ったものが、いかにありそうもないことでも真実である、というものです。この場合、

  • まず Beryl に「エメラルド」を当てており、これは読者が緑色の宝石を容易に思い浮かべられるようにこうしたそうです。the manに「泥棒の」情報を足しているのもわかりやすい。
  • 推理シーンはあまりもったいぶらない訳。この推理演説、数ページ続くのでこのくらいコンパクトでもよいかも

2. まだらの紐の訳し方

念のため詳細は触れませんが、英語の多義語ゆえニュアンス全ては日本語で翻訳しきれない難しい部分。各翻訳者の工夫が見られるシーン。

原文 “The Speckled Band” (The Adventures of Sherlock Holmes)

‘Oh, my God! Helen! It was the band! The speckled band!’ …

“Ah, and what did you gather from this allusion to a band—a speckled band?”
“Sometimes I have thought that it was merely the wild talk of delirium, sometimes that it may have referred to some band of people,

新潮文庫 『まだらの紐』(―の冒険)訳:延原謙

『ああこわい! ヘレン、バンドよ! まだらの紐スペクルド・バンドよ!』…

「ははあ、それで姉上のおっしゃったバンド──まだらの紐スペクルド・バンドというお言葉について、何か思いあたることでもありませんか?」
「それについて、あるときはただ夢中むちゅうで口走った譫言うわごとかしらとも考えてみましたり、またあるときはバンドとは紐のことでなく団体の意味ではないか

  • Speckled の読みを出してくる
  • 「紐のことでなく団体」と、文章で補足

ハヤカワ・ミステリ文庫 『まだらの紐』(「―の冒険」 もしくは新装版文庫「―の冒険 新版 下」)訳:大久保康雄

『おお、ヘレン! バンドが! まだらの紐が!』…

「そうですか。ところで、お姉さんが口走ったバンド──まだらの紐──という言葉について、何か思いあたることはありませんか?」
「夢中で口走った瞻言うわごとかもしれないとも考えましたし、あるいは人間のバンド、つまり

  • 紐と群に同じルビを振って示す方式

河出文庫 『まだらの紐』(―の冒険)訳:小林司, 東山あかね

『ああ、ヘレン! バンドよ! まだらのバンドよ!』…

「ほう、そうしますと、お姉さまがおっしゃったバンド──『まだらのバンド』という言葉から、何か思い当たることはありませんか?」
「そのことについては、ただのうわごとにすぎないのでは、と思いましたが、ひもではなく、人間の一団バンドを意味していて、

  • 紐に「ひも」ルビもふっている

光文社文庫 『まだらの紐』(―の冒険)訳:日暮雅通

『ああ! ヘレン! バンドが! まだらの紐が!』…

「なるほど。それからお姉さんが口にした『バンド』、あるいは『まだらの紐』ということばですが、何を意味しているのか、思い当たることはありませんか?」
「それについては、たんなるうわごとかもしれないと思いましたが、人の集団バンドのことを言っていたとも考えられます。つまり、

創元推理文庫 『まだらの紐』(―の冒険)訳:深町眞理子

『ああたいへん! ヘレン! 紐よ! まだらの紐よ!』…

「ほう。では、お姉さんの謎めいた言葉については、どうです──〝まだらのバンド〟うんぬんという、あれは?」
「あるときは、ただの無意味なうわごとではなかったのかとも思いますし、またときには、ある一団バンドのひとびと──具体的には、

  • ジュリアのセリフにルビを入れていないのは、回想シーンでは勢いを大事にしたからか?

角川文庫 『まだらの紐』(―の冒険)訳:石田文子

『ああ! ヘレン! ひもが! まだらのひもが!』…

「なるほど。それで、お姉さんがおっしゃった『ひも』という言葉ですが、それはなにを指すと思われますか? 『まだらのひも』でしたね」
「それは、意味のない単なるうわごとかとも思いますし、『ひと』といったのかもしれないとも思います。つまり、

  • ルビは使わず。そして… ここにきて新しい技巧が誕生!!

3. ワトスンとの会話

慌てたハドスン夫人に呼ばれたワトスンが221Bに行ってみたら、ホームズが瀕死。あわわ! 好きなエピソード『瀕死の探偵』から、ホームズとワトスンお互いの呼称に注目。

原文 “The Adventure of the Dying Detective” (His Last Bow)

“Well, Watson, we seem to have fallen upon evil days,” said he in a feeble voice, …
“Such a remark is unworthy of you, Holmes. … But someone you must have, and that is final.

  • must はイタリック。これをどう強調して訳しているか。
  • 定型の fall on evil days をどう訳しているかも見どころ

新潮文庫 『瀕死の探偵』(―最後の挨拶)訳:延原謙

「ワトスン君、とうとういけないらしいよ」よわよわしい声でいったが、…
「君らしくもないごあいさつだね、ホームズ君。… とにかく誰かの診察はうけなきゃね。これだけは決定的だよ。

  • 実は一番の重大な特徴として、新潮だけお互い「君付け」呼びなのです。このへんが古風といわれるポイントか。今なら「君」なしでいい気も。

ハヤカワ・ミステリ文庫 『瀕死の探偵』(―最後の挨拶)訳:大久保康雄

「ワトスン、どうやら今度はだめらしいよ」彼は弱々しい声で言った。しかし、…
「まったくきみらしくない言葉だ。 … しかし、いずれにしても誰かに診察してもらう必要がある。これは決定的だ。

  • この部分では省略されていますが、ワトスンから呼びかけるときは「ホームズ」

河出文庫 『瀕死の探偵』(―最後の挨拶)訳:小林司, 東山あかね

「ああ、ワトスン、どうやら不幸に見舞みまわれたようだ」と、弱々しげに彼は言ったが、…
「そういうことをいうのは、君らしくないよ、ホームズ。… とにかく、君は誰かの診察を受けなければならない。これは決定的なことなのだ。

光文社文庫 『瀕死の探偵』(―最後の挨拶)訳:日暮雅通

「やあ、ワトスン、どうやら不運に見舞われたようだよ」そう言うホームズの声は弱々しかったが、…
「きみらしくもないことを言うね、ホームズ。… ともかく、だれかに診てもらわなくちゃならない。それだけは譲れない。

  • 河出と光文の「不幸に(不運に)見舞われた」という言い方は、死にそうな人が口語で使わないような気もしますがまあ、このホームズなら言うかもしれない

創元推理文庫 『瀕死の探偵』(―最後の挨拶)訳:深町眞理子

「やあワトスン、どうやら年貢の納めどきらしいよ」そう言う声は弱々しいが、 …
「きみらしくもない言いぐさだな、ホームズ―― … とにかくきみは、だれかに診てもらわなきゃ、、、、、、、いけない――これは最後通告だ。

  • 「年貢の納めどき」いいですね!!
  • 創元版は、特に原文で italic になっている部分を中心に、傍点、、の使用がちらほら出てきます。これは他の訳ではあまりないです。また、 ―― が頻繁に出てくるのも特徴的です。
  • この話の最後のシーンで、創元だけ、ワトスンについて「証人」という言葉を入れています。これはダントツに分かりやすいです。

角川文庫 『瀕死の探偵』(―最後の挨拶)訳:駒月雅子

「なあ、ワトスン、不運にぶつかってしまったようだよ」か細い声だったが、 …
「きみらしくもない言い方をするね、ホームズ。 … きみには誰かの診察が必要だ。譲歩できるのはここまで。これ以上は絶対に引き下がらないよ。

  • bad luck と dance しちまったぜみたいな訳
  • 角川文庫は今回取り上げた中で唯一訳者が分かれており、「冒険」だけ石田文子訳、それ以降が引き継いだ駒月雅子訳です。残念ながら若干の揺れがあり、その一つが「冒険」では「ぼく」以降では「僕」となってます。「きみ」については両方とも「きみ」です。

4. モリアーティとの会話

『最後の事件』より、宿敵モリアーティ教授と対峙する緊迫のシーン。

原文 “The Final Problem” (The Memoirs of Sherlock Holmes)

“After Monday,” said I. “Tut, tut,” said he. …
“You have paid me several compliments, Mr. Moriarty,” said I. “Let me pay you one in return when I say that if I were assured of the former eventuality I would, in the interests of the public, cheerfully accept the latter.”

  • 遠回しな丁寧語を使いつつも緊迫したバチバチの舌戦を繰り広げる感じ、が出ていると良さ
  • Tut は「ちぇーっ」みたいに訳されることもある、翻訳作品の中ではよく見かける(けど日本語では実際言わないやつ) これの訳し方がそれぞれけっこう違います。
  • 2行目はホームズの返しですが、かなり回りくどく、You pay→ me と Me pay→ you、former と latter という対称の言い方になっているので、この辺どう拾うかも見どころ

新潮文庫 『最後の事件』(―の思い出)訳:延原謙

『月曜日以後ならね』『だめ、だめ!…
『かさねがさねおめの言葉をありがとう。私からも一言申しあげたいが、君のいう私の希望が実現されさえすれば、私は世のためよろこんで君の希望どおりになるものです』

  • ホームズの返答にて前の発言を勘案して君(モリアーティ)のいう「希望」を持ってきています。他の訳だと、モリアーティの希望=破滅まで参照して「破滅」になってます。新潮が一番遠回し感出ていると言えるかも。

ハヤカワ・ミステリ文庫『最後の事件』(―の回想)訳:大久保康雄

『月曜日以後ならね』と、ぼくは言った。『ちっ、ちっ』彼は舌うちした。…
『モリアーティさん、いろいろとほめていただいてありがとう』と、ぼくは言った。『私からも、ひとことお返ししておくが、きみを確実に破滅させることができるなら、私も公共の利益のために、よろこんでわが身の破滅を受け入れよう』

  • 「ちっ、ちっ」は自然
  • ハヤカワの使っている「公共の利益」は他の「世の中」訳より、紳士の舌戦における interests of the public 訳としてカッコ良さがあると思う

河出文庫 『最後の事件』(―の思い出)訳:小林司, 東山あかね

『月曜日が過ぎたら』ぼくは言った。『いや、いや!』彼は舌打ちして言った…
『かずかずのおほめをいただきました、モリアーティさん』ぼくは言った。『一つお返しに、言わせてください。あなたを必ず破滅させられるなら、世の人々のために、わたしは自分の破滅も喜んで受け入れましょう』

光文社文庫 『最後の事件』(―の回想)訳:日暮雅通

『月曜日以降なら』『ばかな!…
『モリアーティ教授、いろいろとお褒めの言葉をありがとう。ひとことお返ししておこう。きみを確実に破滅させることができるのなら、世の人々のために、ぼくは喜んでこの身の破滅を受け入れるとね』

  • 唯一、Tut, tut に舌打ち音を当てず、意味の中に含めています。
  • 光文と角川は Mr. Moriarty にモリアーティ「教授」を当てている

創元推理文庫 『最後の事件』(回想の―)訳:深町眞理子

『月曜日以後ならね』と、ぼく。『ちょっ、ちょっ』相手は舌打ちする。…
『聞いていれば、ずいぶんぼくを褒めてくれているようじゃないか、モリアーティーさん。だからこっちも一言だけお返ししよう――いずれきみに破滅をもたらすことができれば、きっとそうしてみせるし、またもしぼくに破滅がもたらされるようなら、公衆の利益のために、甘んじてそれを受けよう、とね』

  • 「ちょっ」はどうでしょう海外翻訳ぽさ?
  • ホームズの返答部分、かなり長めの和訳

角川文庫 『最後の事件』(―の回想)訳:駒月雅子

『月曜日以降なら』『チッチッ』モリアーティは舌を鳴らした。…
『おほめに預かって光栄だよ、モリアーティ教授。お返しにこっちも一言。あんたを破滅させられるなら、世の中のために喜んで破滅を受け入れる』

  • チッチッも、舌打ち音表現するなら違和感ないかも
  • 「あんた」の表現になっていたり、婉曲感控えめ口語的な訳

5. 躍動感のあるシーン

大好きな『第二のしみ』より。なんか急にきびきびホームズが動き出したんですけど!を表現するワトスンの急に語彙豊かな表現のシーン。

原文 “The Second Stain” (The Return of Sherlock Holmes)

“Now, Watson, now!” cried Holmes, with frenzied eagerness. All the demoniacal force of the man masked behind that listless manner burst out in a paroxysm of energy. …

“We also have our diplomatic secrets,” said he, and picking up his hat he turned to the door.

  • 短編集タイトル Return of と、この話のタイトル Stain をどう訳しているかの違いも見どころ。
  • 2行目は全編通しても大好きで印象的なホームズのおしゃれな名台詞

新潮文庫 『第二の汚点』(―の帰還)訳:延原謙

「ワトスン君、いまだ!」ホームズは気ちがいじみた声をあげると、無関心な態度のそこに秘めていた悪魔あくまにつかれたような精力を、せきをきったような勢いで爆発ばくはつさせた。…

「私たちにも外交上の秘密がありましてね」と帽子ぼうしをつまみあげて戸口のほうへ歩みよった。

  • frenzied の訳語… これはハヤカワまで。2000年以降は避けられる訳語でしょうか
  • 帰り際のセリフ、「…してね」で終わるのは好き
  • 基準があるのだろうけど、やはり新潮はふりがなが多い気がする

ハヤカワ・ミステリ文庫『第二の血痕』(―の復活)訳:大久保康雄

「さあ、ワトスン、いまだ!」ホームズは気ちがいじみた熱意をこめて叫んだ。さりげない態度の底に秘めていたホームズの魔力が、すさまじいエネルギーとなって爆発したのだ。…

「私たちにも外交上の秘密がありましてね」と彼は言った。そして帽子を手にとってドアのほうへ歩きだした。

  • 新潮とほぼ同様
  • タイトル訳、元が Stain だから血痕であることまで踏み込むのはネタバレではないか?という批判があります。ちなみにドラマのグラナダ版ホームズも「第二の血痕」でした。

河出文庫 『第二の汚点』(―の帰還)訳:小林司, 東山あかね

「今だよ、ワトスン、今だ!」とつぜん、ものすごい勢いで、ホームズは叫んだ。あのものうげな態度の裏にかくれていた、ホームズの魔力が、すさまじい勢いでとつぜん激発したようだった。…

「わたしたちにも、外交上の秘密があります」と、彼はそう言うなり、帽子を手に取ると、ドアの方へと向かった。

  • 「…してね」成分が無いと、ただスッと去るだけにも思え、お茶目さが目減りか

光文社文庫 『第二のしみ』(―の生還)訳:日暮雅通

「さあ、ワトスン、いまだ!」勢い込んでホームズが言った。ものうげなふるまいの裏にひそんでいたホームズの不思議な力が、激しいエネルギーになってはじけたのだ。…

「ぼくたちにも外交上の秘密というものはありましてね」そう言うと、ホームズは帽子をとって、ドアのほうへ向かった。

創元推理文庫 『第二の血痕』(―の復活)訳:深町眞理子

「さあ、急げワトスン、急ぐんだ!」ホームズが火のついたような性急さで叫びたてた。
 いままでのものうげなようすをかなぐり捨て、鬼神もかくやの勢いで、一気に爆発的な力をはじけさせる。…

そして、「当方にもまた当方なりの外交上の秘密というものがありまして」と言うと、帽子をとりあげ、戸口へ向かったのだった。

  • 新め訳だけど血痕〜。まあミステリ的にはこの方がワクワクするタイトルなのはわかる。
  • これまでの訳の感じからして、すごいドラマチックなのをやってくれると想像していましたが、想像以上です(笑) 原文にはない段落分けての、鬼神も登場

角川文庫 『第二のしみ』(―の帰還)訳:駒月雅子

「いまだ、ワトスン、早く!」ホームズの意気込む声。気乗りしなそうな仮面の裏から突如エネルギーが噴出し、烈々たる推進力を生み出したといったところか。…

「こちらにも外交上の秘密というものがございまして」そう言い残し、ホームズは帽子を取ってドアへ向かった。

  • 創元と角川は帰り際は「…して」ですね。今だとこのくらいが洗練された感じでしょうか

以上、

翻訳比較でした。みなさまのホームズ翻訳選びの参考にしていただければ幸いです!