「シャーロック・ホームズ」シリーズの邦訳比較 2022

30 August 2022
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先日、ある「夏休みの自由研究企画」イベントにて熱弁してきた内容のブログ化です。実はこのブログ、シャーロック・ホームズのファンサイトってことで始めた… のでした!(すっかりプログラミングやら忍者ネタやらに埋まり、もうタイトルにしかその名残はないのですが…

さてさて、古典でありますので邦訳はめちゃくちゃあります。以下は壮観な全部違う翻訳(出版社)でのホームズ全集

今回は「小説わりと読む大人で、ホームズはもちろん知っているけど実は原作読んだことないから読んでみたい」という人向けにどのレーベルをオススメするか、という観点で比較していきたいと思います。この条件に「9冊全部を紙の文庫で入手容易」を加えると以下の5種類に絞られます。

  レーベル 翻訳者 年代↓ 補足
シャーロック・ホームズの冒険 (新潮文庫) 新潮文庫 延原謙 1950年代 2010年代に改版
シャーロック・ホームズの冒険 (河出文庫―シャーロック・ホームズ全集) 河出文庫 小林司, 東山あかね 1990-2000年代 左の年代は単行本版
シャーロック・ホームズの冒険―新訳シャーロック・ホームズ全集 (光文社文庫) 光文社文庫 日暮雅通 2000年代  
シャーロック・ホームズの冒険 (創元推理文庫) 創元推理文庫 深町眞理子 2010年代 旧版ではなく新版の方
シャーロック・ホームズの冒険 (角川文庫) 角川文庫 駒月雅子, 石田文子 2010-2020年代 2021年完成。できたて!

それぞれの紹介

まず新潮文庫版これが偉大な元祖であり、ぼくもこれが馴染みあります。改版されたとはいえ、訳された年代もありやや古風(例えば「赤ン坊」のようなカタカナの使い方)ではありますが、そもそも19世紀の話なんで古めかしくていいじゃないか説。要注意なのは「紙幅の都合」で短編集から一部がカット、それを集めた「シャーロック・ホームズの叡智」という10冊目がある問題があります。でも<全訳が入手容易>であるのでいいか ※同じ理由で、他の版についても「ボール箱の収録どれ問題」、「短編集の収録順問題」も不問とします

さて基本的に、この後に出た訳は何らかのアップグレードとなっています。河出文庫版は新潮を含めそれまで幾つも出ていた訳に対し、いやシャーロキアンならこう訳すでしょ!という視点で、あまり意訳を加えない原文寄りの訳となっています。また、むしろ本編かw というオックスフォード大学出版からの莫大な注釈がついています。分厚く値段も高いですし、興味を持った人の研究用と思います。(そういう人はこれの単行本と辞典についても調べてみてください)

光文社文庫版はホームズ関連のベテラン翻訳家による、上記をふまえバランスをとった訳。創元推理文庫版はクリスティの翻訳なども手がける深町眞理子さんによる、1970年代の創元版を上書きする形で作られた比較的最近の訳で、なんというか “海外ミステリぽい” ところがあります。角川文庫版は去年完成した一番新しい完訳で、これまで邦訳比較では「まだ全部ないから…」と言われ続けてきたのですがついに参戦となりました。現代向けの平易なわかりやすさを重視されたようです。

これから読むという今回の条件だと光文・創元・角川のいずれかが良いと思います。くわしくは下記の細かい翻訳の違いで確認してみてください。もはや好みの問題になるのですが、個人的には光文社文庫を推します。全体を通して安定感ある格調高さが好みです。「往年のファンの思う世界観に近い」という言い方もできるかもしれません。創元や角川はもう少しフラットな視点での訳になっていると感じます。

念のためのお断りですが、あくまでいちファンによる読み比べた感想です。

装丁・印刷

翻訳の詳細の前に、物理的な話を少々。まずこの5つの中で光文社文庫だけ、カバーが通常の文庫仕様ではなく、箔押しタイトルに背表紙まで一体になった豪華特別製です。新潮社は「冒険」だけ期間限定〈新潮文庫の100冊〉プレミアムカバーバージョンがありますね。

フォントは、新潮がやや大きめ(あとふりがなが多いです)。創元がやや小さめ。

厚みについて、「冒険」で新潮・創元が同じくらい。新潮は内容の一部が「叡智」収録であることを考えると、フォントが大きいことと、もしかして紙が厚め? 驚くのは角川で、全部収録なのに創元より薄いです。これはもしかして翻訳の簡易さ、もしくは紙の薄さの技術かも。光文・河出は補足資料のぶん厚めです。

原作の連載されたストランドマガジンは挿絵がたくさんある雑誌でした。新潮と角川は原作挿絵が未収録(『躍る人形』とかは図版あり)、光文と創元は少々収録、河出はもりもり収録となっています。普通(クリスティとか)はイラストそんなに無いものなので、なくてもいいかなと思います。

名シーンで見る翻訳の違い

5つとも、電子版で冒頭試し読みができますので簡単に比較ができます。例えば「冒険」第1話の『ボヘミアの醜聞』なんかはストーリーほぼほぼ全部読めます(Kindle: 新潮文庫河出文庫光文社文庫創元推理文庫角川文庫

なのでここではそれ以外の話から、3シーンについて翻訳のされかたの比較を並べますので参考にしてください。(引用の範囲内である認識ですが問題あれば指摘ください)

1. いちばん有名な名言のシーン

原文 “The Adventure of the Beryl Coronet” (The Adventures of Sherlock Holmes)

… So far I was clear. The question now was, who was the man and who was it brought him the coronet?
“It is an old maxim of mine that when you have excluded the impossible, whatever remains, however improbable, must be the truth. Now, …

  • この名言は若干言い回し変えて原作に4回登場しますが、ここでは 『緑柱石の宝冠』で見てみます。終盤、ホームズが依頼人含めみんなに推理を披露するシーンです。
  • 探偵あるあるですが、ズバリ答えを言わずもったいぶって推理の過程を順序立てて説明する、その感じの出し方が見どころ。もちろん名言部分のかっこよさも注目。

新潮文庫 『緑柱石の宝冠』(シャーロック・ホームズの叡智)

そこまではわかりましたが、それではその相手の男というのは何者か? 宝冠を持ち出してその男に渡したのは何者でしょうか? 残る問題はそこです。
あり得べからざることを除去してゆけば、あとに残ったのがいかに信じ難いものであっても、それが事実に相違ないというのを、昔から私は公理としております。さて、

  • 最初に1冊おすすめするとしたら第一短編集「冒険」となりますが、その中でこの名言に出会ってもらいたいもの。新潮ではこれが「叡智」収録になってしまっているのが惜しい。
  • コナンくんに毒され、the truthは「真実」に訳してほしいところですが「事実」です。ただ新潮でもこの名言の他の箇所では「真実」に訳されています。
  • 普段は「僕」なのですが、ここは推理披露シーンなので「私」となっている。

河出文庫 『緑柱石の宝冠』(シャーロック・ホームズの冒険)

ここまではわかりました。わからないのは、その男は何者か、彼に宝冠を渡したのは誰かということでした。
ありえないことを取り除くと、残ったものがどんなにありそうもないことでも、それが真実であるというのが、わたしの昔からの信条です。そこで、

  • The question now was… が「…でした。」と過去形になっているのが他の訳と違うところですね。翻訳わからないのですが、読者として(推理自体は過去の行為とはいえ)現在進行形での口述のほうが推理のスピード感ある気が
  • こちらも普段は「ぼく」ですが外向けには「わたし」

光文社文庫 『緑柱石の宝冠』(シャーロック・ホームズの冒険)

まあ、ここまでははっきりしました。そこで問題は、その男というのは誰なのか、男に宝冠を渡したのはいったい誰なのか、という点です。
ぼくは以前から、ひとつの信条をもっていましてね。まったくありえないことをすべて取り除いてしまえば、残ったものがいかにありそうにないことでも、真実に違いないということです。ところで、

  • 新潮・河出の2つに対し、原文と光文・創元・角川の3つが大きく違うのは、A: 私にこういう信条がある B: 具体的な名言 の順序について、A→BとなっているかB→Aとなっているか、があります。B部分がけっこう長いので、原文と同じくA→Bの方が、より名言部分をもったいぶれる感(←なにその感w
  • 一人称はいつも通りの「ぼく」ですが、ぜんぜん変ではない

創元推理文庫 『緑柱石の宝冠』(シャーロック・ホームズの冒険)

ここまでがはっきり見えてきたわけです。残る問題は、その男がだれで、男に宝冠を渡してやったのはだれか、これだけです。
かねてからのぼくの信条のひとつに、〝ありうべからざることをすべて除去してしまえば、あとに残ったものが、いかにありそうもないと思えても、すなわち真実である〟、というのがあります。さて、

  • 創元版では、名言がもはや〝 〟でくくられていて笑いました。他の箇所でもそうです。「これはホームズの名言である」みたいな注まで入っていますw

角川文庫 『エメラルドの宝冠』(シャーロック・ホームズの冒険)

残る問題はその泥棒の男がだれかということと、その男に宝冠を持っていったのはだれかということです。
わたしは昔からある定理を利用してきました。それは、不可能なことを除去していけば、残ったものが、いかにありそうもないことでも真実である、というものです。この場合、

  • まずBerylにエメラルドを当てており、これは読者が緑色の宝石を容易に思い浮かべられるようにこうしたそうです。the manに「泥棒の」情報を足しているのもわかりやすい。
  • 推理シーンはあまりもったいぶらない訳。この推理、数ページ続くのでこのくらいコンパクトでもよいかも

2. ワトスンとの会話シーン

原文 “The Adventure of the Dying Detective” (His Last Bow)

“Well, Watson, we seem to have fallen upon evil days,” said he in a feeble voice, …
“Such a remark is unworthy of you, Holmes. … But someone you must have, and that is final.

  • 慌てたハドスン夫人に呼ばれたワトスンが221Bに行ってみたら、ホームズが瀕死。あわわ! お互いの呼称が出てくるシーンを、好きなエピソードから選んできました。
  • 定型の fall on evil days をどう訳しているかも見どころ

新潮文庫 『瀕死の探偵』(シャーロック・ホームズ最後の挨拶)

「ワトスン君、とうとういけないらしいよ」よわよわしい声でいったが、…
「君らしくもないごあいさつだね、ホームズ君。… とにかく誰かの診察はうけなきゃね。これだけは決定的だよ。

  • 一番の重大な特徴は、新潮だけ名前で呼ぶとき「君付け」です。ぼくはすっかりなじんでいましたが、ここが古風といわれるポイントか。たしかに君なしでいい気も。

河出文庫 『瀕死の探偵』(シャーロック・ホームズ最後の挨拶)

「ああ、ワトスン、どうやら不幸に見舞われたようだ」と、弱々しげに彼は言ったが、…
「そういうことをいうのは、君らしくないよ、ホームズ。… とにかく、君は誰かの診察を受けなければならない。これは決定的なことなのだ。

光文社文庫 『瀕死の探偵』(シャーロック・ホームズ最後の挨拶)

「やあ、ワトスン、どうやら不運に見舞われたようだよ」そう言うホームズの声は弱々しかったが、…
「きみらしくもないことを言うね、ホームズ。… ともかく、だれかに診てもらわなくちゃならない。それだけは譲れない。

創元推理文庫 『瀕死の探偵』(シャーロック・ホームズ最後の挨拶)

「やあワトスン、どうやら年貢の納めどきらしいよ」そう言う声は弱々しいが、 …
「きみらしくもない言い種だな、ホームズ―― … とにかくきみは、だれかに診てもらわなきゃ、、、、、、、いけない――これは最後通告だ。

  • 「年貢の納めどき」いいですね
  • この話の最後のシーンで、創元だけ、ワトスンについて「証人」という言葉を入れています。これはダントツに分かりやすいです。
  • 創元版は、特に原文で italic になっている部分を中心に、傍点、、の使用がちらほら出てきます。これは他の訳ではあまりないです。また、 ―― が頻繁に出てくるのも特徴的です。

角川文庫 『瀕死の探偵』(シャーロック・ホームズ最後の挨拶)

「なあ、ワトスン、不運にぶつかってしまったようだよ」か細い声だったが、 …
「きみらしくもない言い方をするね、ホームズ。 … きみには誰かの診察が必要だ。譲歩できるのはここまで。これ以上は絶対に引き下がらないよ。

  • なお角川文庫はこの中で唯一訳者が分かれており、「冒険」が石田文子訳、以降が駒月雅子訳となっています。若干の揺れがあり、その一つが「冒険」では「ぼく」に対してそれ以降では「僕」となってます。「きみ」については両方とも「きみ」です。

3. モリアーティとの会話シーン

原文 “The Final Problem” (The Memoirs of Sherlock Holmes)

“After Monday,” said I. “Tut, tut,” said he. …
“You have paid me several compliments, Mr. Moriarty,” said I. “Let me pay you one in return when I say that if I were assured of the former eventuality I would, in the interests of the public, cheerfully accept the latter.”

  • 宿敵モリアーティ教授と対峙する緊迫のシーン。遠回しな丁寧語を使いつつもバチバチの舌戦を繰り広げる感じが出ているとよさ
  • Tut は「ちぇーっ」みたいに訳されることもある、翻訳作品の中ではよく見かける(けど実際言わないやーつw これの訳し方がけっこう5つそれぞれ違います。
  • 2行目はホームズの返しですが、かなり回りくどく、かつ You pay→ me / Me pay→ you、former / latter という対称の言い方になっているので、この辺どう拾うかも見どころ

新潮文庫 『最期の事件』(シャーロック・ホームズの思い出)

『月曜日以後ならね』『だめ、だめ!…
『かさねがさねお褒めの言葉をありがとう。私からも一言申しあげたいが、君のいう私の希望が実現されさえすれば、私は世のためよろこんで君の希望どおりになるものです』

  • ホームズの返答にて前の発言を勘案して君(モリアーティ)のいう「希望」を持ってきています。他の訳だと、モリアーティの希望=破滅まで参照して「破滅」になってます。新潮が一番遠回し感出ていると言えるかも。

河出文庫 『最期の事件』(シャーロック・ホームズの思い出)

『月曜日がすぎたら』ぼくは言った。『いや、いや!』彼は舌打ちして言った…
『かずかずのおほめをいただきました、モリアーティさん』ぼくは言った。『一つお返しに、言わせてください。あなたを必ず破滅させられるなら、世の人々のために、わたしは自分の破滅も喜んで受け入れましょう』

光文社文庫 『最期の事件』(シャーロック・ホームズの回想)

『月曜日以降なら』『ばかな!…
『モリアーティ教授、いろいろとお褒めの言葉をありがとう。ひとことお返ししておこう。きみを確実に破滅させることができるのなら、世の人々のために、ぼくは喜んでこの身の破滅を受け入れるとね』

  • 唯一、Tut, tut に舌打ち音を当てず、意味の中に含めています。
  • 光文と角川は Mr. Moriarty にモリアーティ「教授」を当てているのは分かりやすいと思う

創元推理文庫 『最期の事件』(回想のシャーロック・ホームズ)

『月曜日以後ならね』と、ぼく。『ちょっ、ちょっ』相手は舌打ちする。…
『聞いていれば、ずいぶんぼくを褒めてくれているようじゃないか、モリアーティーさん。だからこっちも一言だけお返ししよう――いずれきみに破滅をもたらすことができれば、きっとそうしてみせるし、またもしぼくに破滅がもたらされるようなら、公衆の利益のために、甘んじてそれを受けよう、とね』

  • 「ちょっ」は海外翻訳ぽさ
  • ホームズの返答部分、長め

角川文庫 『最期の事件』(シャーロック・ホームズの回想)

『月曜日以降なら』『チッチッ』モリアーティは舌を鳴らした。…
『おほめに預かって光栄だよ、モリアーティ教授。お返しにこっちも一言。あんたを破滅させられるなら、世の中のために喜んで破滅を受け入れる』

  • チッチッは、あえて舌打ち音を表現するなら一番違和感ないかも
  • 「あんた」の表現になっているのを含め、婉曲感控えめ・直接的な舌戦のよう